トワイライトEXPの思い出(2)

何度も目にする機会のあったトワイライトEXP。
初めて乗車できたのは、2003年1月2日のことでした。
人生初渡道の帰り道に、札幌→大阪の上り8002列車での乗車となりました。

札幌駅にて。

札幌駅では、先頭のDD51重連がホームの端から外れるように停車していますので、せっかくの先頭を撮影することができません。
DD51の次位にスイートのスロネフ25が連結。
黄色の帯には銀色の縁取りがなされていましたので、内装リニューアル後の編成ですね。
上り列車ではせっかくの展望スイートも、大阪までの大半を機関車のお尻とにらめっこ。
昭和前半の機関車牽引時代のつばめ号やはと号が、展望1等車を必ず最後尾になるよう三角ルートを使用して編成を方向転換したように、トワイライトEXPの展望スイートも必ず最後尾になるようにすれば、展望スイートの価値が出るのに、といつも思うのですが…。
それが無理なら展望がイマイチな分、寝台料金を少しディスカウントすればいいのに。
そんな複雑な思いを抱きつつ、先頭から最後尾まで編成を確認のためにホームを歩きました。
かの百輭先生をはじめ、宮脇俊三氏なども乗車前に実施していたそうです。
そんな大事な「セレモニー」を私も。
これが出来るのは始発駅の特権ですね。

最後尾は電源エンジンが轟音をたてるカニ24。
私の指定された寝台は9号車のBコンパートの上段でした。
指定の寝台に行くと、すでに家族連れがコンパート4席のうち3席を占めていました。
どうりで私の指定席は上段のはず。

上段では窓の展望も楽しめません。
仕方ないので、通路側の補助椅子に腰かけてましたが、それでもどうにも居心地がよくないので、結局は寝る時以外はほぼ大半をサロンカーでくつろぐ事に。

(↑有珠山
その代わり、北海道の雄大な景色を、窓の大きなサロンカーで楽しめましたので、これはこれで良しとしないと。
札幌駅で買った駅弁も、サロンカーで食べたように思います。
上りのトワイライトEXP砂原線を経由するので、車窓を楽しみにしていたのですが、もうすでに真っ暗でした。
青函トンネルの通過は全然記憶に残っていません。

(↑狭い通路の奥の扉を開けるとそこは憧れの食堂車)
食堂車は、予約していなかったので、21時からのパブタイムに利用した記憶があります。
もう奥羽本線に入ってからの利用でした。
確かチーズの盛り合わせとソーセージとビールを注文して、23時の店じまいまでチビチビと粘っていたはず。
その後、指定のB寝台上段に戻って横になりました。


翌朝の記憶はほとんど残っていません。
またもやサロンカーで車窓を楽しんでいたように思います。
北陸本線に入ると、時間がかかって長いなぁ、という印象でした。
北陸本線では、俊足の電車特急の邪魔にならないように遠慮したようなダイヤなので、疾走感に乏しく淡々と走っている印象でした。
実際、ところどころで後続の電車特急に追い越されました。
私の荷物の後片付けもあるので、湖西線に入って琵琶湖が見える辺りで、指定寝台のあるコンパートに戻り、通路の補助椅子に腰かけていたら、同じコンパートの家族連れの方から「賑やかですみません」との声をかけられました。
話を伺ってみると、確か道央の旭川だったか深川だったかに在住の農家の方で、農閑期のこの季節に家族で関西旅行との事。
京都でトワイライトEXPを降りてまず京都観光、翌日は大阪のユニバーサルスタジオ・ジャパンに行くとの事でした。
飛行機で関西訪問なら手軽なのに、ご家族ご一行で丸一日かけてトワイライトで移動とは、なかなか大変だったかもしれません。
京都からご家族が降りて開いたBコンパートメントを独り占め。大阪までのわずか40分程度でしたが。

(↑テルハの痕跡が残る当時の大阪駅に到着後、宮原区に回送されるまでの間の停車時間に撮影。)
かように、私のトワイライトEXP初乗車は、自分の居場所の確保に苦心した印象が強く記憶に残った22時間でした。