そうだ 九州 行こう その4(いさぶろう、はやとの風)

その3からの続きです。


人吉からふたたび肥薩線。吉松まで「いさぶろう1号」に乗車。
深紅に塗られた専用のキハ140とキハ47の2両編成。

2004年3月に乗車した際には1両単行だったものが現在は増車されているので、人気の程が伺える。
私の座席は2号車キハ47-9082の8番A席。進行方向右側の進行方向向きの2人席(ボックス席ではなかった)。
熊本からの特急くまがわ1号が到着し、年末だけあって3両編成からたくさんの乗客が吐き出されてきた。
そのうちの少なくない人数が跨線橋を渡って乗換。
車内は盛況である。
太陽が高くなり、気温も高まりつつあるからか、霧も晴れてきた。


10時08分、人吉定発。標高106M。
発車早々、球磨川を渡ると山間に入り、25‰の勾配をじりじり登りつつトンネルが連続している。
いくつかのトンネルを抜けると、大畑駅に到着。標高294M。

山間なので、日当たりの悪い部分は霜が降りている。
観光列車であるため、数分の停車時間が設けられていて、乗客が列車や駅舎など思い思いに観察している。
大畑駅といえばスイッチバックの駅。
ゆえに、この数分の間に運転士が反対側の運転台に移動。
スイッチバック駅らしく、逆送で出発し、数百M進み折り返し線に停車。
(↓折り返し線の終端)

運転士が再度進行方向の運転台に戻り、矢岳駅に向け進行。
スイッチバックで標高を稼ぐと、続いてループ線が始まり、またもや標高を稼いでいく。
下り列車では左方向へのカーブでループをぐるっと回りきると、眼下に先ほど通り過ぎた大畑駅が見える地点で観光停車。

この地点は25〜30.3‰の旧勾配地点。
かつて、非力で登坂力が弱かった蒸機列車の時代には、こんな地点での停車など、とても考えられなかったであろう。
この地点からの大畑駅俯瞰は、地形上1両目からは見えても2両目からは見えないため、2−3分後に1両分だけ進行して2両目の乗客にも見えるように心配り。
その時に目にした景色が↓の画像。

急勾配を再発進し、車窓左側に江代山・市房山を遠望。

更にじりじりと勾配を登ると、肥薩線サミットの矢岳駅に到着。
標高は536.9M。人吉から400M以上も登坂していることになり、人吉発車直後の緩勾配の区間を含めても人吉→矢岳の平均勾配が21.5‰にもなるのである。
大変な勾配区間である。

矢岳でもまた数分の観光停車。
ここには人吉市SL展示館があり、D51-170が展示されている。

かつてD51-170と並ぶように展示されていたハチロクこと58654を復活させ、現在でも活躍しているのは有名な話。
サミットの矢岳駅を出発すると、これまでの登り坂から一転、打って変わって下り坂で、我が列車は息を吹き返したように足取りが軽くなる。
肥薩線最長の矢岳第一トンネル(2096M)に突入。
このトンネルの出入り口に掲げられている山縣伊三郎の「天険若夷」、後藤新平の「引重致遠」の扁額が、列車名に使われた事も有名な話であるが、本日の乗客の何割がこの事を知っているのであろうか。
もちろん、アテンダントが放送で説明し、また、車内で配布されているチラシにもその旨は記載されているのであるが。
矢岳第一トンネルにて、列車は熊本県から宮崎県へ。
肥薩線の名が示す通り肥後と薩摩を結んでいる路線だが、ごくわずかだけ日向にも足を踏み入れているのである。
国境の矢岳第一トンネルを抜けると、日本三大車窓のひとつ、霧島連山・えびの高原・京町温泉郷は車窓左側に展開。

この日は、くっきりと霧島連山が見えながらも、麓の京町温泉には霞がかかる幻想的ともいえる景色であった。
また、霧島連山の右奥には、噴煙をあげる桜島もうっすらと目にする事ができた。
車内放送でアテンダントが言うには、天候が良くないと桜島はなかなか見えないそうである。
人吉盆地ではあれほどの濃霧であったが、幸いにも晴れてくれたおかげでこの車窓を楽しむ事ができ感激。
2004年3月24日に乗車した際、霧島連山はうっすらと見えたものの、京町温泉は雲海の下で何も見えなかった。
これはこれで、その時の気象条件が織りなす大自然の神秘なのだが、やはり雄大な景色を見てみたくてこのほど再度肥薩線に乗車しているのでもあるが。
25‰の下り坂を転がり落ちていくと、進行方向左側の下に真幸駅のホームが見える。
(↓2004年3月24日撮影。)

またもスイッチバックであり、今見えたホームを通りすぎ、折り返し線に入ってから、進行方向を変え逆送し、真幸駅に到着。
(↓最左の登り勾配が人吉からの線路。平坦で右カーブの2本が真幸駅。右手前の1本が吉松への線路。2004年3月24日撮影)

この駅のホーム上には駅名にちなみ「幸せの鐘」が設置されていて、乗客がカンカンと鳴らしている。
説明書きには「ちょっと幸せの方は1回、もっと幸せを願う方は2回、いっぱい幸せな方は3回鳴らしてください」とある。
自分の幸せの程度がどの程度かよくわからないのだが、とりあえず私も幸せを願い一打。

その一方、乗降ホームの先端には、大きな岩が囲いの中に展示されている。

説明を読むと「昭和47年7月6日午後1時45分頃、山津波が発生し約30万立米の土砂が流出。この岩塊は山津波記念として保存。重量約8トン」とある。
あいにく、岩塊に目を向けている乗客は少なかった。
真幸を出発すると、またも25‰の急勾配。
トンネルが5本連続する途中の明かり区間に「復員軍人殉難碑」があり、アテンダントからこの説明があった。
太平洋戦争が終結した直後の昭和20年8月22日に、多数の復員軍人を乗せた列車が吉松を発車し真幸に向け急勾配に挑むも、勾配を登り切れずに山神第二トンネル内で立ち往生。
煙が充満するトンネル内から逃れようと復員軍人など乗客が列車から降りると、同じく煙から逃れるべく退行してきた列車に轢かれて死者56名の大惨事が発生。
熾烈な戦争を何とか生き延びた軍人が帰国できたのに、このような所で命を落とすとは、何とも無念であったのではないかと思う。
急勾配を下り終えた我が列車は、吉松駅に定着。標高は213M。


吉松では同じホームの両側に深紅のいさぶろう、漆黒のはやとの風が並んで停車。
私は、はやとの風に乗換え。吉松ではわずか3分の接続でせわしない。

同じキハ40なのに、かたや普通で、こなた特急。
はやとの風における「特急」の意味を理解しているつもりであるがが、出自が一般形気動車なので違和感がある。
デビュー当初のはやとの風の黒は、黒という色が滴るのではないかと思うぐらいに黒光りしていたように思うのだが、今回目にした黒は、ツヤがなくなっているように感じた。
そろそろ塗り替えたほうがよいのでは?
吉松を11時24分、定発。
指定券を購入していないため、2号車自由席に着席。
乗車率は2両編成で7−8割程度か?
座席はほぼ埋まっていた。盛況であろう。
車内を観察。

木目調の壁に、市松模様のモケットを貼ったリクライニングシート。シックである。
ボックスシートの配置に合わせた窓割りの種車にリクライニングシートを配しているために窓割が合っていない点が玉に傷。
いさぶろうと同じく、車窓を楽しめるように大きな窓に面した木のベンチもある。

はやとの風もいさぶろうも良く似たコンセプト。
違いは、通過駅の有無と、座席が構造(ボックスシートかリクライニングシートか)。
あまりコストをかけられない苦しい台所事情の中、いかに上質のサービスを作りだすかに知恵を絞った結果がキハ40の転用改造だった訳であろうが、よくぞここまで上質に改造したものだと思う。
また、当列車のデビューは2004年だったために、その当時はビュフェを設置するコンセプトがなかったのか、もしくはあったが諸般の事情であきらめたのかどうか、「A列車でいこう」や「あそぼーい!」のようにビュフェが設置されていないが、1号車洗面所前に売店があり、ここをベースに車販が回り、物販を実施している。
その車販からホットコーヒーを購入。


大隅横川に停車。

かつて使用されていたスパイラル形状の通票受器が残されている。
通過列車からタブレットを駅に返却する際に、運転助士がこのスパイラルにタブレットキャリアを投げ入れるもの。
どうせなら、駅から通過列車に通票を渡すための通票授け器も保存しておいてほしかったところ。


続いて、嘉例川駅に停車。
古い木造駅舎と名物駅長が有名な駅である。
名物駅長に握手を求め、快く応じていただいた。

駅舎の中には、かつて嘉例川駅で使用されていた什器備品が展示されている。
赤い通票閉塞器があり、合わせて通票受器も展示されていた。

通票受器は、平成22年8月に駅横の竹やぶの中から発見されたとの事。


竹の柱で覆われた特徴的な駅舎の隼人駅に到着。
ここからは日豊本線錦江湾沿いに南下。
波静かな錦江湾には、養殖いけすが浮かんでおり、また、イルカが生息しており、まれに列車内からも見る事ができるとの事。
その対岸には、桜島

山頂から噴煙が上がっているが、さほど強い上がり方ではなさそう。

素人目には、雲との違いがよく分からないのだが、アテンダントの説明では噴煙が出ているとの事。
観光客としては強い噴煙を見てみたいと思うのだが、地元住民からすれば、降灰に悩まされているのであるため、噴煙など少しも有難くない存在であろう。雪国における積雪と同じである。
加治木駅錦江駅付近からは遠くにしか見えなかった桜島も、竜ヶ水駅まで来ると実に近い。

桜島指宿枕崎線からも見る事ができるほか、廃線となった大隅線からも見る事ができたはず。
大隅線に乗ってみたかった。
竜ヶ水〜鹿児島間では、車窓右手に島津家の別邸であった仙巖園が見える。

中国文化を取り入れた日本庭園で有名。一度ゆっくりと観てみたいものである。
我が列車は鹿児島駅に停車。
鹿児島駅は、鹿児島本線日豊本線の終点である。
新幹線の終点は鹿児島中央駅であるし、在来線列車もほとんど全てが鹿児島駅をスルーして鹿児島中央駅を発着としており、敢えて言うならば、貨物列車が当駅に隣接の鹿児島貨物ターミナル駅を発着しているぐらいで、実に終着駅の感じの薄い駅だと思う。
その鹿児島駅の側線には、485系の姿が。

2011年3月のダイヤ改正でお役御免となった車両であろう。
まだ解体されずに留置されているのが寂しい。
2004年に当駅を通った際に、当時はお役御免となった475系が多数留置されていた。
歴史は繰り返す、である。

鹿児島駅を発車し、短いトンネルを抜けると、鹿児島中央駅に定着。
2004年に改称された当駅。
自分のような第二次ベビーブーマー世代は、昭和50年代のブルトレブーム・L特急ブームを体験しているのだが、それら*1の終着駅は「西鹿児島」であった為、いまだにこの駅名には慣れない限り。
寝台特急なは号に当時の「西駅」から新大阪まで乗車した十数年前が懐かしい。


【行程】
人吉1008→(1253Dいさぶろう1)→1121吉松1124→(7021Dはやとの風1)→1248鹿児島中央


(続)

*1:はやぶさ、富士、なは、明星、有明、にちりん、等